~イメージシティ事件(著作権侵害差止請求権不存在確認請求事件)を知って~

音楽データの「オンラインストレージ」サービスについて、サービス運営者は著作権侵害にあたるとの判決が下された。音楽データを個人が保存し、ネット上にアップして携帯電話にダウンロードする。こんな個人的な行為に対しても「私的複製」が認められないという驚きの判決だ。単にデータを「仲介」しているだけのサービス運営者もとんだとばっちりだ。 

ネット上に音楽データ保存 携帯で聴くと著作権侵害? ~J-CASTニュース

(以下の文は、現行の法解釈や判例には必ずしも従っていません。本判決で争われた事実も当事者の主張も精査しておらず、またその能力もないので、これを批判するものではありません。この事件を契機に浮かんだ単なる個人的な雑感に過ぎません。)

著作物

著作物は、「もの」であって、「物(有体物)」ではない。観念的なもの、すなわちコンテンツである。音楽CDを買ったとき、音楽著作物はそのCD自体ではなくて、そのCDに乗っている音楽コンテンツである。同様に、音楽データを買ったとき、音楽著作物はそのデータ自体ではなくて、そのデータに乗っている音楽コンテンツである。

すなわち、著作権者から見ると、CDやデータは、その音楽著作物の一具象(実現例)に過ぎない。

所有権

一方で、音楽CDは有体物である。よって、これを正規に購入した者は、その物の所有権を獲得する。

所有者は、自由にその物の使用、収益及び処分ができる。公益的な見地からそれが制限される場合もありうるけれども、これは所有物に対する絶対的な支配権を意味している。その使用の仕方は所有者に委ねられており、その制作者が意図しない方法で使用することも自由である。

所有権の観点からは、音楽CDの所有者は、これをお風呂の中で再生することが当然にできるし、屋外で再生することもできる。音楽プレイヤーで聴くこともできるし、その再生能力を持ったコンピュータで聴くこともできる。国外で聴くこともできる。一の再生機の複数のスピーカを各部屋に設置して何れの部屋で聴くこともできる。遠隔地にデータ転送して出先からこれを聴くこともできる。これを第三者に聞かせてその対価を請求することもできる。これは、プロゴルファが自分のゴルフクラブを携行しこれを使って世界中で賞金を稼ぐことができるのと同じであり、大学教授が他者が書いた書籍を使って授業を行うことができるのと同じである。

所有権の処分には、当然に、その物の破壊、改良が含まれる。所有者は改良した所有物を他者に転売することも自由である。

物の上の処分権はその所有者に委ねられているから、一つの物の上に複数の所有権は成立し得ない。 しかし、音楽CDなどの著作物の複製品には、その物の所有権の他に、その音楽の著作権者の権利が依然として宿っている。つまり、一つの音楽CD上に、一つの所有権と一つの著作権が同時に宿っている。複数の著作権が宿っている場合もある。特許権などの他の無体財産権といわれるものが更に同時に宿っている場合もある。

このことが問題を複雑にする。

権利の衝突

特許法によれば、特許のアイディアに係る物(発明品)を使ったり、売ったりする行為は、特許権者の独占行為である。よって、特許権者がそれを許さない限り、他者はそれらの行為をしてはならない。これはまさに、所有権に類似の権利である。

一方で、発明品を正規に購入した場合には、その物には購入者の所有権が宿る。所有者は、その所有権に基づいて、当然に、購入物の使用ができ、転売ができる。このことは、特許法による先の制限規定と完全に競合/矛盾する。つまり、発明品の正規購入者が、これを使用したり、転売しようとする場合に、一方の神(民法)は「どうぞ自由に」と言い、他方の神は(特許法)は「いやダメだ」と言っている。この矛盾を解決するために、裁判所は、所有権による絶対支配権の原則を貫いて、この場合の特許の効力を消滅化させている。

著作権法でも、著作物の複製品の特定の使用や販売が、著作権者の独占行為として規定されている。しかし、特許の場合では、あらゆる態様の使用が禁止されているのに対して、著作権の場合には、特定の態様における使用、すなわち、「公衆に対して行う」、上演、上映、送信、口述、展示、頒布などに限っての使用が禁止されている。よって、著作物に係る音楽CDを、公衆に対してではなく、自分たちに対して再生する行為においては、権利の衝突はおこらず、特許の場合のような問題は生じない。

複製権

では、正規に購入した音楽CDを複製する行為はどうなるか。

音楽CDを複製する行為は、その音楽CD(これはその音楽コンテンツの一複製物である)を基に、音楽コンテンツの複製物を新たに生産する行為である。音楽CDの購入者が獲得するのは、その所有権であり、その購入によって、その音楽コンテンツの支配権が得られる訳ではない。音楽コンテンツを生産する権利は、依然として、著作権者に留保されている。著作権者に著作物を複製する権利を留保したことと、所有者に所有権を認めたこととは競合しない。

つまり、音楽CDを正規に購入したとしても、その購入品に宿っている著作権者の権利は生きており、従って、その購入者が権利者の意に反してこれを複製することは原則、違法である。

しかし、私的使用のために著作物を複製する行為は、例外的に許容されている。音楽CDの購入者が、自らが聴く用のために生じうる複製行為は許される。もっとも、公共の場に設置された複製能力をもった装置での複製は、たとえそれが自らが聴く目的のものであっても、この例外は適用されない。そして、その装置の設置者はその違法行為の幇助者として賠償責任を負うだろう。

一方で、所有権の対象となる所有物が音楽CDである場合、所有物の使用とはその音楽CDを再生して聴くことであるから、音楽CDの購入者は、所有権に従って、これを、いつでも、どこでも、何度でも、自由に聞ける。コンピュータおよびそのネットワークの関連技術は、この購入者の自由をより広範に顕在化させるものである。

つまり、購入者はこのような新たな環境化における使用の自由を元々持っている。購入したカメラは、それが可能ならば水中での撮影に使ってもよい。購入した車のハンドルを、レースゲームに使ってもよい。スタンドアロンのプリンタを、可能ならばネットワークに繋いで使ってもよい。同様に、購入した音楽CDを、コンピュータ・ネットワークを介して、別の場所で聞いてもよい。

ネットワーク送信

しかし、購入した音楽CDを、コンピュータ・ネットワークを介して、別の場所で(および|または)別のデバイスで聴く場合、その過程において技術的に音楽コンテンツの複製が作られる。普通、そのコンテンツは、他者が用意したサーバ上に永続的または一時的に置かれる。他者は、自らがそれを使用することはないが、そこにコンテンツの複製物が作られることを許容し、またはそれを商業的/非商業的にサポートしている。ここで、このような過程で行われる音楽コンテンツの複製が、著作権法で禁止されている複製に当たるか否かが問題となる。

「複製」とは同じ物を製造することである。著作権法では、「有形的に再製すること」と定義している。しかし、著作物が物自体ではなくそのコンテンツにあることに鑑みれば、複製というのは、再製というよりも、コンテンツを人が知覚できるように具象する行為、つまり、著作物に基づいてその一形態を社会に新たに生み出す行為である。すなわち、生産、上演、録音、筆記、建築などは、複製であろう。

著作権法は、著作物を複製する行為を著作権者に独占させることによって、著作権者が自ら望む時に、自ら望む形および数量で、社会に出て行くようにコントロールする権利を、著作権者に留保した。これはそれを生み出したものの当然の権利とも言える。法は第三者による複製が無制限に行われることによって、著作権者に与えられるべきこのコントロール権が侵されることがないようにした。

果たして、上記過程で生じる複製行為は、この著作権者の上記コントロール権を侵す、あるいはそれを脅かすものなのだろうか。自ら購入したCDの音楽を携帯電話で聴くという目的行為が著作権者のどんな不利益となるのであろうか。正規に購入した商品の使用、収益、処分の権限は購入者にあり、このCDの著作権者(販売者)にとっても、それが売り渡された以上、「お買い上げありがとうございます。ご自由にお楽しみください。」ということであろう。このような自ら使用する目的で、コンピュータおよびそのネットワーク関連技術を利用したときに、その過程において生じる複製行為は、それが実際に誰の手で行われるかに拘らず、その最終目的である使用を全うするためには不可避のことである。そうである以上、それは使用の実現のための付帯的作用(行為ではない)であるとみるべきだ。

著作権法21条の「複製する権利」が、著作権者に流通のコントロール権を留保したとものであると考えるならば、行為者をして複製にはそれに結びつけるための積極的な意思、または、少なくとも複製を「する」という能動的な意思が必要であろう。サーバ上のこれらの複製行為には、流通をコントロールしたりその一部を担ったりしようとする積極的な意思は見当たらない。複製を「する」という能動的な意思も見当たらない。あるのは、購入者がその音楽を別のデバイスで聴けるようにするという意思だけである。スーパーで包丁を買った帰路、危険物を所持しているとして銃刀法違反になることはない。これをスーパーの配送係に依頼しても同様である。自分の音楽を別の場所で聴くために、不可避的に生じてしまう複製は、著作権法が予定している複製とは言えない。

公衆送信

著作権者以外の者は、その許諾が無い限り、著作物を公衆送信してはならない。

公衆送信とは、みんなに向けての送信であり、そのみんなというのが、特定の多数者であってもよい。仮に、送信者が特定または不特定の多数者に向けて、一つの著作物を、同時または非同時に、送信する行為は、公衆送信である。ちなみに放送は、公衆送信の下位概念である。公衆送信は、著作物の一形態を、同時並行的に、新たに社会に生み出す行為であり、これは複製に類似の行為と捉えることができるかもしれない。

一方、特定の一人に向けての送信は公衆送信とは言わない。従って、一つの著作物を特定の一人が受け取るように送信する行為は、公衆送信ではない。しかし、複製と言ってもいいかもしれない。この場合に、送信者と受信者が同じ場合は、当然に、公衆送信でもないし、複製と言うこともできないだろう。

音楽CDの所有者が、ネットワークの他者管理下のサーバを介して、自分にその音楽データを送信する場合、サーバ管理者はそのデータの送信者になるのであろうか。サーバ管理者による送信行為は、常に、音楽CDの所有者の操作または命に従ってなされるものである。サーバ管理者が、CDの所有者から独立して、すなわち自己判断により、音楽データを送信することはない。つまり、サーバ管理者はCD所有者の手足に過ぎない。従って、サーバ管理者をデータ送信の幇助者ということはできるけれども、主体的な送信者ということはできない。

参考:著作権法特許法民法



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